落ちる

濃紺の闇へ

本 編

濃紺の闇へ、私は落ちる。

落ちる。
ただ、落ちる。

上も下もない。

世界はただ、深く淀んだ青の層のみ。

時間はすでにほどけ、記憶の輪郭も溶け落ち、残るのは肉体だけが静かに連れ去られる感覚。

耳の奥で低く響くのは心臓なのか、闇そのものが吐く長い呼吸なのか、もう判別できない。

冷えた空気が肌を這うたび、私は青の底へ、一層深く沈みゆく。

落ちる。

落ちる。

抗う術もなく、私はただ落ちる。

どれほど落ちたのか、わからない。

一瞬か、永劫か。

その底知れぬ暗がりのなかで、ふと幼い日の記憶を拾い上げる。

祖父の家の古い水槽。

黒い砂利の沈黙。

薄灯りの下で身を揺らす熱帯魚たち。

あの透明な檻のなかで、魚は墜ちることなくただ漂っていた。

今、私は思う。

あの水槽こそが、この闇の最初の雛型だったのだと。

落ちる。

私はまだ、落ちている。

背後に、気配が生じた。

振り返るより早く、それはそこにあった。

闇よりなお濃い影。人の形を借りながら、顔だけが抉り取られたような無貌。

その空虚な穴が、私を凝視している。
影は私と同一の速度で落ち、寄り添い、ときおり長い指のようなものを伸ばして足首を掠めていく。

「落ちろ」

声はない。
ただ、その一語だけが、骨の髄まで染み入る。

落ちる。
落ちる。
落ちろ、と闇は命じる。

私は叫ぼうとする。
だが喉から零れるのは、泡のように儚く消える息ばかり。
影は、笑ったのかもしれない。
いや、笑ったのではなく、ただ濃さを増しただけなのかもしれない。

曖昧であるがゆえに、なお残酷な程の輪郭を持っていた。

やがて、底のない底から音が這い上がってきた。
遠い波の囁き。
誰かの、抑えた泣き声。
そして、幼い私が、私の名を呼ぶ声。

その刹那、細い白い光の裂け目が闇を切り裂いた。

落下はなお続いている。

しかし光は青の層をわずかに透かし、指先で触れたような冷たい疼きを残す。

私はその光へ手を伸ばす。
伸ばす。
それでも落ちる。
それでも、なお落ちる。

光に近づくにつれ、記憶の断片が浮かび上がる。
母の、かすかな笑み。
夏の夜の、花火の残光。
失くした犬の、冷えた首輪。
そして、崖の縁で立ち尽くし、飛び降りた瞬間の自分自身。

ここにきて、ようやく悟る。
これは墜落ではない。
これは、逃避だ。
深みへ沈むことでしか、私は痛みから目を逸らせなかったのだ。

影が、すぐ背後まで来ていた。

冷たい指先が肩に触れる。

「まだ落ちるのか」

その声は、甘い誘惑の形をしていた。

このまま永遠に。

このまま青の底へ。

名も傷も微塵も残さず、沈みきってしまえと。

私は首を振る。
光がすぐそこにある。もう少し。もう少しだけ。

落ちる。
なおも落ちる。
落ちながら、私は手を伸ばす。

光が、爆ぜた。

白。
青。
そして、朝の色が滲み出す。
濃紺の闇は、夜の切れ端のようにほどけ、散っていく。
気づけば私は、柔らかな土に膝をついていた。

鳥の声。

草を撫でる風

堤防の向こうに、海が朝焼けを湛えている。

しかし恐る恐る振り返れば、影はまだそこにいる。
濃紺の残滓が、人の形を借りて佇んでいる。
顔のない穴が、静かに私を見つめている。

まるで、「また落ちよう」と誘うように。

私は立ち上がる。
朝のほうへ歩き出す。
落ちるかわりに、歩く。
それでも影は、すぐ背後に寄り添う。

足音が地面を打つたび、影は少しずつ薄れていく。
けれど完全に消えることはない。

私は知っている。
夜が来れば、また私は落ち始めることを。

落ちる。

落ちる。

それでも今は、朝の光のなかにある。
濃紺の闇は、まだ私の影のすぐ後ろに、静かに寄り添っている。

しかし、私は歩き続けられなかった。

足の裏が、突然、柔らかい泥に変わる。
いや、泥ではない。
それは、深く淀んだ水だった。

膝が沈む。
腰が沈む。
胸まで、濃紺の冷たさが這い上がってくる。
私は振り返らない。
ただ、前に、前にと、沈んでいく。

海は、堤防の向こうではなく、私の足元から始まっていた。
朝焼けの光は、表面でだけ輝き、私が沈むにつれて急速に色を失っていく。

青が、藍に。
藍が、墨に。
墨が、やがて何色でもない、ただの「無」になっていく。

落ちる。

水圧が、ゆっくりと私の体を包み込む。
肺の奥まで、冷たい指が差し込まれる。
鼓動が、遠くで響く。
自分の心臓の音が、まるで他人のもののように聞こえる。

影は、私のすぐ左側に並んで沈んでいる。
顔のない穴が、こちらを向いている。
今度はもう、掠めるのではなく、しっかりと私の左手を握っていた。
その手は、温かくも冷たくもなかった。
ただ、重い。

「ここまで来て、まだ光を欲しがるのか」

影の声が、水の中で直接私の頭蓋骨に響く。
私は答えなかった。
喉から出るのは、泡だけだ。

さらに沈む。
光は、もう完全に消えた。
代わりに、遠く遠くで、微かな青白い光が点滅している。
それは魚の光ではない。
死んだ記憶が、腐りながら発光しているだけだ。

幼い日の私が、井戸の底で泣いている。
崖の上で、私はまだ立ち尽くしている。
母の笑みは、すでに形を失い、ただ「何かあった」という輪郭だけを残している。

影が、私の耳元で囁く。

「全部、沈めてしまえ。
ここなら、誰にも見つからない。
痛みも、名前も、朝も、全部」

私はその手を振りほどこうとした。
しかし指が、影の指に絡みついて離れない。
むしろ、私のほうが強く握り返している。

水の底から、低い唸り声が上がってくる。
それは波の音ではない。
それは、私が今まで抑えていた、すべての声が溶け合ったものだ。
叫び、泣き、祈り、諦め——
それらがすべて一つの、長い、黒い息になっている。

私はさらに沈む。
もう、どれだけ深く沈んだのか、わからなくなった。
圧力が、骨の髄まで染み込んでくる。
それでも、私は落ち続ける。

影が、私の肩に自分の顔のない頭を寄せてくる。
その空虚な穴が、私の耳にぴったりと重なる。

「もう、いいだろう」

私は、ゆっくりと頷いた。

頷いた瞬間、
私の体から、最後の光が抜け落ちた。
朝の残り香も、
鳥の声も、
風の感触も、
すべてが、泡になって上へ上へと逃げていく。

私はただ、落ちる。
影と一緒に。
深海の底へ。
底へ。
底へ。

そして、ついに、
何もかもが、静寂に飲まれていった。

濃紺の闇へ、私は沈む。

いや、沈むというより、沈んでいく。
重い海水に抱かれ、ゆっくり、ゆっくりと、底へ引きずられていく。

上も下もない。
ただ、四方を塞ぐ暗い水の層だけが、私の全身を包み込んでいる。

耳の奥はきんと疼き、遠のいた音の中で耳の奥だけがずっと鳴っている。

かわりに、圧が身体の内側から押し寄せてくる。

肺の奥まで藍が満ち、息を吸うたび、私はこの深みの一部になっていく。肌を這う冷たさは、ただ冷たいのではない。海自身の記憶を、ゆっくりと私の血に染み込ませている。

私は息をするたび、少しずつこの深みの一部になっていく。

沈む。

沈む。

抵抗しても、なお沈む。

視界はすでに輪郭を失っている。

暗闇はただ暗いのではない。

それは重なり合う層となり、ねっとりと深さを増しながら、私の周囲を締めつけていく。

青は次第に黒へ変わり、黒はさらに濃くなり、
もはや色ではなく、圧力そのものになる。
水の重さが骨の髄まで沁み、鼓動すら遠くで響くだけのものになっていく。

沈む。
沈む。
私は、深海の底へ向かっている。

そこでは時間もまた沈んでいる。
秒の音は消え、記憶だけが、ゆっくりと浮遊する。

幼い日の夜の海。
堤防から覗いた黒い水面。
遠くで揺れていた船の灯り。

それらはすべて、この闇のずっと上の方にある、失われた世界の残像だ。
見上げれば届きそうで、けれどもう戻ることはできない。

ふいに、足元に何かが触れた。
岩礁か。
古い海藻の群れか。

それとも、底で眠る何かの、冷たい影か。

私は思わず身を強張らせる。
しかしその正体を確かめるより先に、さらに深い静けさが私を包み込む。
無音の海が、私の名を、ゆっくりと忘れていく。

沈む。
さらに深く。
底のない底へ。

やがて、暗闇の向こうに、かすかな光が揺れた。
あまりに遠く、あまりに弱い、深海に差しこむ微かな反射。

けれど私は知っている。
あれは希望ではない。
ただ、この底にもまだ、別の底があると知らせるだけの冷たい光だ。

私はその光へ向かって、なおも沈み続ける。
終わりのない暗藍へ。
誰の声も届かない静けさへ。
深海の、さらに深いところへ。

影が、私のすぐ横を滑るように落ちてくる。
顔のない、濃紺の残滓。
それは沈む私に寄り添い、長い指のようなものを伸ばして、肩をそっと撫でる。
「まだ沈むのか」と、声にならない声が囁く。

私はもう二度と首を振らない。
ただ、静かに瞼を閉じる。
圧が全身を締めつけ、藍が肺を満たし、
私はもう、沈むことしかできない。

沈む。
沈む。
このまま、永遠に。

異 稿 集

本編に統合される前の各稿。削除はせず、制作過程として保存しています。

断章 ── クラゲ(前版の終章)

改稿前の版で本編の最終節に置かれていた断章。今回の本編には含まれていないため、削除せずここに保存しています。本編末尾に戻すこともできます。

ああ、それは夢とうつつの狭間へ、静かに沈んでいく問いかけ。

深淵では、言葉はゆっくりと沈む。
音は遠ざかり、重く、静かで、それでもどこか優しい。
誰にも届かない最深部で、自分の輪郭がじんわりと滲み、溶けていく。
そこにいるのは、もう「私」ではなく、ただ青い記憶の残響だけ。

浅瀬では、陽が差す。
言葉の影が砂の上で踊り、波にさらわれて、次の瞬間にはなかったことになる。
それでも、消える直前の一瞬の煌めきは、なぜか胸に焼きつく。
光は短く、鮮やかで、残酷なほど美しい。

クラゲが光る場所は、どちらでもいい。
深くても、浅くても。
ふわりと漂い、ただ光っていればいい。
理由なんていらない。
理由があれば、その光はきっと少し歪んでしまう。

私は今、深海と浅瀬のあわいにいる。
沈むように漂い、漂うように沈みながら、
自分の輪郭をゆっくりほどいていく。
クラゲのように、静かに、静かに、光り続けたい。

ただ、それだけで。

異稿 A ── 濃紺の闇へ、私は落ちる(落下〜朝/初稿)

本編Ⅰ〜Ⅵの土台となった稿。「雛型」の一語、影の無貌、「これは逃避だ」の断定はこの稿から採用。末尾の異同(消えない/消えぬ)のみ異なるほぼ同文の稿がもう一本存在したため、本稿に一本化した。

濃紺の闇へ、私は落ちる。

落ちる。
ただ、落ちる。

上も下もない。世界はただ、深く淀んだ青の層のみ。時間はすでにほどけ、記憶の輪郭も溶け落ち、残るのは肉体だけが静かに連れ去られる感覚。耳の奥で低く響くのは、心臓の鼓動か、それとも闇そのものが吐く、長い長い息か。冷えた空気が肌を這うたび、私は青の底へ、一層深く沈みゆく。

落ちる。
落ちる。
抗う術もなく、私はただ落ちる。

どれほど落ちたのか、わからない。
一瞬か、永劫か。
その底知れぬ暗がりのなかで、ふと幼い日の記憶が浮上する。祖父の家の古い水槽。黒い砂利の沈黙。薄灯りの下で身を揺らす熱帯魚たち。あの透明な檻のなかで、魚は墜ちることなくただ漂っていた。
今、私は思う。あの水槽こそが、この闇の最初の雛型だったのだと。

落ちる。
私はまだ、落ちている。

背後に、気配が生じた。
振り返るより早く、それはそこにあった。
闇よりなお濃い影。人の形を借りながら、顔だけが抉り取られたような無貌。
その空虚な穴が、私を凝視している。影は私と同一の速度で落ち、寄り添い、ときおり長い指のようなものを伸ばして足首を掠めていく。

「落ちろ」

声はない。
ただ、その一語だけが、骨の髄まで染み入る。

落ちる。
落ちる。
落ちろ、と闇は命じる。

私は叫ぼうとする。
だが喉から零れるのは、泡のように儚く消える息ばかり。影は笑うでもなく、ただその濃さを増す。曖昧であるがゆえに、なお残酷な輪郭。

やがて、底のない底から音が這い上がってきた。
遠い波の囁き。
誰かの、抑えた泣き声。
そして、幼い私が、私の名を呼ぶ声。

その刹那、細い白い光の裂け目が闇を切り裂いた。
落下はなお続いている。
しかし光は青の層をわずかに透かし、指先で触れたような冷たい疼きを残す。

私はその光へ手を伸ばす。
伸ばす。
それでも落ちる。
それでも、なお落ちる。

光に近づくにつれ、記憶の断片が浮かび上がる。
母の、かすかな笑み。
夏の夜の、花火の残光。
失くした犬の、冷えた首輪。
そして、崖の縁で立ち尽くし、身を投げたかつての私。

ここにきて、ようやく悟る。
これは墜落ではない。
これは、逃避だ。
深みへ沈むことでしか、私は生の痛みから目を背けられなかったのだ。

影が、すぐ背後に迫る。
冷たい指が肩に触れる。

「まだ落ちるのか」

その声は、甘い誘惑の形をしていた。
このまま永遠に。
このまま青の底へ。
名も傷も残さず、沈みきってしまえと。

私は首を振る。
光はもう、目前にある。
落ちる。
なおも落ちる。
落ちながら、私は手を伸ばす。

光が、爆ぜた。

白。
青。
そして、朝の色が滲み出す。
濃紺の闇は、夜の切れ端のようにほどけ、散っていく。
気づけば私は、柔らかな土に膝をついていた。
鳥の声。
草を撫でる風。
堤防の向こうに、海が朝焼けを湛えている。

しかし振り返れば、影はまだそこにいる。
濃紺の残滓が、人の形を借りて佇んでいる。
顔のない穴が、静かに私を見つめている。

私は立ち上がる。
朝のほうへ歩き出す。
落ちるかわりに、歩く。
それでも影は、すぐ背後に寄り添う。
消えない
消えきらない
夜が来れば、私は再び落ちるのだろう。

落ちる。
落ちる。
それでも今は、朝の光のなかにある。

異稿 B ── しかし、私は歩き続けられなかった(続篇/偽の底〜沈降)

本編Ⅶ・Ⅷの土台。「海は堤防の向こうではなく、私の足元から始まっていた」「もう、いいだろう?」への頷きはこの稿から。本編では末尾の「静かになった」を削り、Ⅸ深海へ接続した。

しかし、私は歩き続けられなかった。

足の裏が、突然、柔らかい泥に変わる。
いや、泥ではない。
それは、深く淀んだ水だった。

膝が沈む。
腰が沈む。
胸まで、濃紺の冷たさが這い上がってくる。
私は振り返らない。
ただ、前に、前にと、沈んでいく。

海は、堤防の向こうではなく、私の足元から始まっていた。
朝焼けの光は、表面でだけ輝き、私が沈むにつれて急速に色を失っていく。
青が、藍に。
藍が、墨に。
墨が、やがて何色でもない、ただの「無」になっていく。

落ちる。

水圧が、ゆっくりと私の体を包み込む。
肺の奥まで、冷たい指が差し込まれる。
鼓動が、遠くで響く。
自分の心臓の音が、まるで他人のもののように聞こえる。

影は、私のすぐ左側に並んで沈んでいる。
顔のない穴が、こちらを向いている。
今度はもう、掠めるのではなく、しっかりと私の左手を握っていた。
その手は、温かくも冷たくもなかった。
ただ、重い。

「ここまで来て、まだ光を欲しがるのか」

影の声が、水の中で直接私の頭蓋骨に響く。
私は答えなかった。
喉から出るのは、泡だけだ。

さらに沈む。
光は、もう完全に消えた。
代わりに、遠く遠くで、微かな青白い光が点滅している。
それは魚の光ではない。
死んだ記憶が、腐りながら発光しているだけだ。

幼い日の私が、井戸の底で泣いている。
崖の上で、私はまだ立ち尽くしている。
母の笑みは、すでに形を失い、ただ「何かあった」という輪郭だけを残している。

影が、私の耳元で囁く。

「全部、沈めてしまえ。
ここなら、誰にも見つからない。
痛みも、名前も、朝も、全部」

私はその手を振りほどこうとした。
しかし指が、影の指に絡みついて離れない。
むしろ、私のほうが強く握り返している。

水の底から、低い唸り声が上がってくる。
それは波の音ではない。
それは、私が今まで抑えていた、すべての声が溶け合ったものだ。
叫び、泣き、祈り、諦め——
それらがすべて一つの、長い、黒い息になっている。

私はさらに沈む。
もう、どれだけ深く沈んだのか、わからなくなった。
圧力が、骨の髄まで染み込んでくる。
それでも、私は落ち続ける。

影が、私の肩に自分の顔のない頭を寄せてくる。
その空虚な穴が、私の耳にぴったりと重なる。

「もう、いいだろう?」

私は、ゆっくりと頷いた。

頷いた瞬間、
私の体から、最後の光が抜け落ちた。
朝の残り香も、
鳥の声も、
風の感触も、
すべてが、泡になって上へ上へと逃げていく。

私はただ、落ちる。
影と一緒に。
深海の底へ。
底へ。
底へ。

そして、ついに、
何もかもが、静かになった。

異稿 C ── 口語・簡素版(落下〜朝)

文体を口語に寄せ、影を「闇そのものが生き物になったもの」として不定形に留めた稿。「底があるのだ。終わりがある」という安堵の逆説が独自だが、本編は影を人型に確定させる方向を採ったため不採用。

――濃紺の暗闇のなか、私は落ちていく。

上も下もわからない。音はないのに、耳の奥だけがずっと鳴っている。世界は息を止めたみたいに静かで、肌に触れる空気だけが冷たい。私は目をこらすが、見えるのは深い青の層だけだった。青は闇になり、闇はさらに深くなって、私を抱えたままどこまでも沈めていく。

落下には重さがない。だが、恐怖だけは確かに重い。胸のあたりに鈍い石を飲みこんだようで、呼吸のたびにそれが少しずつずれていく。助けを呼ぼうとして口を開くと、声は音にならず、暗闇に溶けた。

どれくらい落ちているのか、もうわからない。

ただ、落ちながら私は思い出していた。子どものころ、夜の海を見たことがある。堤防の上から覗いたその海は、月の光を吸いこんだ黒い布のようだった。岸から離れた場所にだけ、深い藍色の筋が走っていた。あれはきっと、今日のこの闇と同じ色だったのだと思う。近づけば冷たく、遠目には美しい。触れてしまえば、戻れない。

ふいに、足元――あるいは背中――に、何かが触れた気がした。

私は身をこわばらせる。だがそれは手ではなかった。羽でも、枝でもない。もっと静かで、もっと大きい。闇そのものが、ひとつの生き物になって私の落下に並走しているようだった。見えないはずなのに、視線だけがある。見つめ返されている。

その瞬間、落下が少しだけ緩んだ。

止まったのではない。落ちていることに変わりはない。けれど、速さが変わると、世界は急に形を持ちはじめる。暗闇の底に、細い光の糸が一本、現れた。遠い。あまりにも遠い。けれど確かに、そこにある。私はそれに向かって手を伸ばした。

指先が震える。

届かない。まだ届かない。だが、届かないことがわかった途端に、なぜか少しだけ安心した。底があるのだ。終わりがある。果てしない落下ではない。私はまだ、どこかへ向かっている。

光は、近づくたびに白くなった。

白はやがて青を破り、青は薄くなり、私の周りの闇は布を裂かれるようにほどけていく。最後に残った濃紺が、ひらひらと夜の切れ端みたいに揺れた。

そして私は、落下をやめた。

目の前には、朝があった。
けれど私はまだ、あの暗闇の底で誰かに見つめられていた気がして、しばらく立ち上がれなかった。

異稿 D ── 説明的版(影が数メートル後ろで見守る)

影が距離を取り「見守る」存在として描かれる稿。ラストで影が手を差し出し「また落ちよう」と誘う所作、歩くほど影が薄れる描写が独自。本編は影を密着させる方向(寄り添う・手を握る)を採ったため不採用。

濃紺の暗闇のなかで、私は落ちていく。

上も下も、時間さえも溶けている。耳の奥で低く響くのは、自分の心臓か、それとも闇そのものが息を吐いている音か。肌を撫でる空気は冷たく、粘つくようにまとわりつき、肺の奥まで藍色の冷たさを染み込ませる。私は手を伸ばしてみるが、指先は何も掴めず、ただ青の層を切り裂くだけだった。

どれだけ落ちたのか、わからない。
一秒か、一年か、あるいは永遠か。

落ちながら、私は昔のことを思い出した。
幼い頃、祖父の家で見た古い水槽。底に沈んだ黒い砂利と、薄暗い照明の下でゆらゆら泳ぐ熱帯魚たち。魚たちは決して底に着くことはなく、ただ青い水のなかで浮遊していた。あの水槽の色に、どこか似ている。この闇は、生き物を閉じ込めるためのものなのだろうか。

ふと、背後に気配を感じた。

振り返ろうとしても、体はゆっくりとしか動かない。重力がないのに、動きだけが遅い。そこにいたのは、闇より少し濃い影だった。人の形をしていたが、輪郭はぼやけ、顔の部分はただ深い藍の穴が開いているだけ。影は私の落下に合わせて滑るように並走し、時折、長い指のようなものを伸ばして私の足首に触れようとする。

「落ちろ」と、影は言った。
声はなかったのに、言葉は直接頭の奥に響いた。

私は叫ぼうとしたが、喉から出たのは泡のような無音の息だけ。影は笑ったような気配を残して、少し離れた。だが完全に消えることはない。いつも、数メートル後ろで、私の落下を見守っている。

やがて、闇の底から音が聞こえ始めた。

最初は遠い波の音。
次に、誰かの泣き声。
最後に、自分の名前を呼ぶ、幼い私の声。

光が現れたのは、そのときだった。

一本の、細く白い光の糸。まるで天井のひび割れから差し込む朝の光のように。落ちる速度が緩やかになるにつれ、光は太くなり、周囲の濃紺を薄く溶かしていく。私は必死にその光に向かって手を伸ばした。指先が震え、涙が浮かんで零れ、闇に溶けて消えた。

近づくにつれ、光は記憶の断片を映し始めた。

母の笑顔。
夏の夜に花火を見た空。
失くした犬の首輪。
そして、崖から飛び降りた瞬間の自分自身。

私は気づいた。
これは落下ではない。
これは、逃げているのだ。

影が再び近づいてきた。今度はすぐ後ろ。冷たい指が私の肩に触れる。
「まだ落ちるのか?」と影は囁く。
「ここでいいだろう? このまま、ずっと。」

私は首を振った。
光がすぐそこにある。もう少し。もう少しだけ。

光が爆ぜた。

世界が白くなり、青くなり、朝の色に変わる。
私は柔らかい地面に膝をついていた。
鳥の声がする。風が草を揺らす。
目の前には、見覚えのある堤防があった。幼い頃に見た海が、朝焼けに染まって広がっている。

だが、背後からまだ気配がする。

ゆっくり振り向くと、そこには濃紺の残滓が、人の形をした影となって立っていた。顔のない穴が、私をじっと見つめている。

影はゆっくりと手を差し出した。
まるで、「また落ちよう」と誘うように。

私は立ち上がり、朝の光のほうへ歩き始めた。
足音が地面を打つたび、影は少しずつ薄れていく。
けれど完全に消えることはない。
私は知っている。
夜が来れば、また私は落ち始めることを。

それでも今は、朝のなかで歩く。
濃紺の闇は、まだ私の影のすぐ後ろに、静かに寄り添っている。

異稿 E ── 改行分割・推敲版

異稿Aを一行ずつ分解し、息継ぎを増やした稿。水槽の反転を二文に割って明示した点が最も明快で、本編Ⅱの構文はこの稿の論理を採用(語彙は「雛型」を残した)。

落ちる

 落ちる

濃紺の闇へ、私は落ちる。
落ちる。
ただ、落ちる。

上も下もない。
あるのは、深く沈んだ青の気配だけだ。
時間はほどけ、輪郭は崩れ、身体だけが静かに連れ去られていく。
耳の奥で鳴っているのが心臓なのか、闇そのものの呼吸なのか、もう判別できない。
冷えた空気が肌を撫でるたび、私は少しずつ、青の底へ沈んでいく。

落ちる。
落ちる。
抗う間もなく、私は落ちる。

どれほど経ったのか、わからない。
一瞬とも、永劫ともつかぬ暗がりのなかで、私はふいに、幼い日の記憶を拾い上げる。
祖父の家の古い水槽。
黒い砂利の沈黙。
薄い灯りの下で身を揺らす魚たち。
あの透明な箱のなかで、魚は墜ちることなく、ただ漂っていた。
けれど今、私は思う。
この闇は、あの水槽に似ているのではない。
むしろ、あの水槽こそが、最初からこの闇の小さな写しだったのだ。

落ちる。
私はまだ、落ちている。

背後に、気配がした。
振り返るより先に、それはそこにいた。
闇よりなお濃い影。
人の形をしているのに、顔だけが抜け落ちている。
その無貌の穴が、私を見ていた。
影は私に寄り添うように、同じ速さで落ちてくる。
ときおり指のようなものを伸ばし、足首のあたりをかすめていった。

「落ちろ」

声はなかった。
けれど、そのたったひとつの語だけが、直接、思考の奥へ沈みこんできた。

落ちる。
落ちる。
落ちろ、と、闇が言う。

私は叫ぼうとした。
だが喉の奥から漏れたのは、泡のように消える息ばかりだった。
影は、笑ったのかもしれない。
いや、笑ったのではなく、ただ濃さを増しただけなのかもしれない。
その輪郭は曖昧で、曖昧であるがゆえに、なおいっそう不気味だった。

やがて、底のない底から音が立ちのぼってきた。
波の音。
誰かの泣き声。
そして、幼い私が、私の名を呼ぶ声。

そのときだった。
細い白い糸のような光が、暗闇に裂け目をつくった。
落下はなおも続いている。
けれど光の到来によって、闇はわずかに透け、青の層に指先で触れたような感触を残した。

私はその光へ手を伸ばす。
伸ばす。
それでも落ちる。
それでも、落ちる。

光に近づくほど、断片が浮かび上がった。
母の笑み。
夏の夜の花火。
失くした犬の首輪。
そして、崖の縁で立ち尽くしていた、かつての私自身。
そこでようやく、私は気づく。
これは墜落ではない。
逃避だ。
深みへ向かうことでしか、私は何かから目を逸らせなかったのだ。

影が、すぐ背後まで来ていた。
冷たい指先が肩をかすめる。

「まだ落ちるのか」

その問いは、誘惑の形をしていた。
このまま、永遠に。
このまま、青の底へ。
このまま、名もなく、傷もなく、沈みきってしまえと。

だが私は首を振った。
光はもう、すぐそこにある。
落ちる。
なおも落ちる。
けれど、落ちながら、私は手を伸ばす。

光が、爆ぜた。

白。
そして青。
青の奥から朝の色が滲み出し、濃紺の闇はひとつずつほどけていく。
気づけば私は、柔らかな地面に膝をついていた。
鳥の声がする。
風が草を揺らす。
堤防の向こうでは、海が朝を受け止めている。

けれど振り返れば、まだそこにいる。
濃紺の残滓が、影のかたちを借りて立っている。
顔のない穴が、じっとこちらを見ていた。

私は立ち上がる。
歩き出す。
朝のほうへ。
落ちるかわりに、歩く。
それでも、影はすぐ背後に寄り添ってくる。
消えない。
消えきらない。
夜が来れば、また私は落ちるのだろう。

落ちる。
落ちる。
それでも今は、まだ朝のなかにいる。

異稿 F ── 暗藍の闇へ(深海・第一稿)

「あれは希望ではない。ただ、この底にもまだ、別の底があると知らせるだけの光だ」——本編Ⅸの決定的な一文はこの稿から。末尾の一行「もっと暗く息の届かない漆黒のさらに奥へ」も本編に採用。

暗藍の闇へ、私は落ちる。
いや、落ちるというより、沈んでいく。
重い海水に抱かれながら、ゆっくり、ゆっくりと、底へ引かれていく。

上も下もわからない。
ただ、四方を閉じる暗い水の気配だけがある。
耳の奥はきんと痛み、音は遠のき、かわりに、圧だけが身体の内側へ忍びこんでくる。
肺の奥まで藍色が満ちていくようで、私は息をするたび、少しずつこの深みの一部になっていく。

沈む。
沈む。
抵抗しても、なお沈む。

視界はすでに輪郭を失っている。
暗闇はただ暗いのではない。
それは層になり、重なり、ねっとりとした深さを持って、私の周囲を包みこむ。
水底へ近づくほど、青は黒に変わり、黒はさらに濃くなって、もはや色というより、圧力そのものになる。

沈む。
沈む。
私は、深海へ向かっている。

そこでは、時間もまた沈んでいる。
秒針の音は消え、記憶だけが浮遊する。
幼い日の海。
夜の堤防。
遠くで光っていた船の灯り。
それらはすべて、いま潜っているこの闇の、ずっと上の方にあったもののように思える。
見上げれば届きそうで、けれどもう戻れない。

ふいに、足元に何かが触れた気がした。
岩か。
海藻か。
それとも、底で眠る何かの影か。
私は身を強張らせる。
けれどその正体を確かめる前に、さらに深い静けさが私を包む。
音のない海が、私の名を忘れていく。

沈む。
深く。
さらに深く。

やがて暗闇の向こうに、かすかな光が見えた。
あまりに遠く、あまりに弱い、深海に差しこむ微かな反射。
けれど私は知っている。
あれは希望ではない。
ただ、この底にもまだ、別の底があると知らせるだけの光だ。

私は、その光へ向かって沈み続ける。
終わりのない青へ。
誰にも届かない静けさへ。
深海のもっと深いところへ。

もっと暗く息の届かない漆黒のさらに奥へ

異稿 G ── 濃紺の闇へ、私は沈む(深海・拡張稿)

異稿Fの語彙を練り直し、影を再登場させた稿。「無音の海が、私の名を、ゆっくりと溶かしていく」「水の重さが骨の髄まで沁み」など、本編Ⅸの本文はこの稿を基礎にしている。影との最後のやりとりは本編Ⅷに前倒しした。

濃紺の闇へ、私は沈む。

いや、沈むというより、
重い海水に抱かれ、ゆっくりと、底へ引きずられていく。

上も下もない。
ただ、四方を塞ぐ暗い水の層だけが、私の全身を包み込んでいる。
耳の奥はきんと疼き、音はすでに遠のいている。かわりに、圧が身体の内側から押し寄せてくる。

肺の奥まで藍が満ち、息を吸うたび、私はこの深みの一部になっていく。肌を這う冷たさは、ただ冷たいのではない。古い海の記憶を、ゆっくりと私の血に染み込ませている。

沈む。
沈む。
抵抗しても、なお沈む。

視界は輪郭を失い、暗闇はただ暗いのではない。
それは重なり合う層となり、ねっとりと深さを増しながら、私の周囲を締めつけていく。
青は次第に黒へ変わり、黒はさらに濃くなり、もはや色ではなく、圧力そのものになる。
水の重さが骨の髄まで沁み、鼓動すら遠くで響くだけのものになっていく。

沈む。
沈む。
私は、深海の底へ向かっている。

そこでは時間もまた沈んでいる。
秒の音は消え、記憶だけが、ゆっくりと浮遊する。
幼い日の夜の海。堤防から覗いた黒い水面。遠くで揺れていた船の灯り。
それらはすべて、この闇のずっと上の方にある、失われた世界の残像だ。
見上げれば届きそうで、けれどもう、戻ることはできない。

ふいに、足元に何かが触れた。
岩礁か。
古い海藻の群れか。
それとも、底で眠る何かの、冷たい影か。
私は思わず身を強張らせる。
しかしその正体を確かめるより先に、さらに深い静けさが私を包み込む。
無音の海が、私の名を、ゆっくりと溶かしていく。

沈む。
さらに深く。
底のない底へ。

やがて、暗闇の向こうに、かすかな光が揺れた。
あまりに遠く、あまりに弱い、深海に差し込む微かな残光。
それは希望ではない。ただ、この底にもまだ、別の底があると告げるだけの、冷たい光だ。

私はその光へ向かって、なおも沈み続ける。
終わりのない暗藍へ。
誰の声も届かない静けさへ。
深海の、さらに深いところへ。

影が、私のすぐ横を滑るように落ちてくる。
顔のない、濃紺の残滓。
それは沈む私に寄り添い、長い指のようなものを伸ばして、肩をそっと撫でる。
「まだ沈むのか」と、声にならない声が囁く。

私は首を振らない。
ただ、静かに目を閉じる。
圧が全身を締めつけ、藍が肺を満たし、
私はもう、沈むことしかできない。

沈む。
沈む。
このまま、永遠に。